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一人前の医者になるといふことは、何等の学歴もなく又資もとでもなかつた房一にとつては困難をきはめた仕事であり、それだけに心の全部を惹きつけていたものだつたが、今その峠に達してみると、更に前方に見えて来たいくつかの峠が彼の新しい野心を惹きはじめていた。その野心の目的といふものも、彼が東京の市内で散見することのあつた大病院の院長とか、或ひは病理学研究の名声赫々たる博士とか、さういふ粗雑なものにすぎなかつたが、それは名声が彼にとつて魅力があり、院長の威厳が彼に好もしく思はれたのではなく何かしら内部に溢れる野気が単にさういふ粗雑な形の中にその吐け口を見つけようとしたのであつた。
――「それに、おれは今まで散々したい放題のことはして来た。そろそろ、親の云ふことは聞いてもいゝ頃だ」
ここの温泉は、私にも、いくらかヌルすぎる。というのは、胃のところが冷えてくる。けれども胃の上へタオルをのッけておくと、冷感が去るので、入浴しているうちは、たのしい。私は三十分から一時間、時には一時間半はいっていたこともある。だんだん、ねむくなる。枕があったら、このまま、ねむりたい、と思うことがあった。
又とぎれた。
「私共は、これも(練吉を指して)この町の医者です。実は火事だといふから駆けつけたので。聞けば、演習だといふことですが、それなら前もつて町役場なり駐在所なりへ通知があるべき筈だと思ひますが、それはなさつたでせうな」
徳次はこの往診といふ言葉がさきほど河原で房一の口から聞いた時に突然耳新しく身近かに響いたのを思ひ出しながら、それを口にするのを楽しむやうにつけ加へた。
根津が箱根における化物話は、それからそれへと伝わった。本人も自慢らしく吹聴していたので、友達らは皆その話を知っていた。
「せんせい!」
「おい、早く早く」
「や、さうですか。僕も今そこから帰るところです」
が、要するに房一が腹に据ゑかねて座を立つたのはもつともだ、といふことに落ちついた。何でもなかつた。鍵屋の隠居が面喰つただけだつた。房一の方から云へば、彼は自分の存在を認めさせることになつた。それは、手ごはい、喰へない男、としての「医師高間房一」だつた。そして、こんな風に善かれ悪しかれ人に取沙汰される男は、河原町ではきはめて興味ある存在にちがひなかつた。
正文はその傍に近づきながら、他の用事で来たついでのやうに云つた。
房一はズボン下を円めて魚寵といつしよにぶら下げながら、丸出しの肥つた足でぴよいぴよい河原石の上を先に立つて歩いた。
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